奇妙な世界

僕の世界には、ないものがあり、あるものがない。|『存在しない』を考える〈第5回〉

「この目で見た」は、どこまで頼りになるのか。目の前のゴリラを見落とし、失った手を感じる。実在・経験・判断の組み合わせをたどると、僕の認識にはいくつもの違いがある。「存在しない」を考える、第5回。

文・編集|かったつ 約9分

ガチャ。

ふう、と息を吐く。靴を脱ぐ。廊下を抜けて、部屋のドアを開ける。

……誰?

椅子に誰かが座っている。暗がりに、肩の輪郭が見える。

足を止めたまま、明かりをつける。

コートだ。

背もたれに掛けたコートが、人に見えただけだった。

人が消えたわけではない。初めから、いなかった。

なのに、胸はまだどきどきしている。

いない人を見て、僕は身構えた。では逆に、目の前にいる人に、まったく気づかないこともあるのだろうか。

目の前の景色を、そのまま見ているのか

バスケットボールをパスする人たち。その回数を数えているあいだに、ゴリラの着ぐるみを着た人が映像を横切る。

見逃すには、ずいぶん目立ちそうだ。ところが、パスを数えることに集中していると、その人に気づかない参加者がいた。1999年に報告された実験だ。[1]

ボールもゴリラも、同じ映像に映っている。けれど、注意はパスの回数に向いていた。目に入るものが全部、本人の意識に上るわけではなかった。

心理学者のウィリアム・ジェイムズは、何が経験の中心になるかには、関心や注意が関わると論じた。[2]

目を向けた先にも、気づいているものと、気づかないものがある。

気づいたものが、いつも正しく見えるとも限らない。冒頭の僕は、椅子に注意を向けていた。それでも、コートを人と受け取った。

この「何に見えるか」を説明する一つの考え方が、アニル・セスらの論じる「予測処理」だ。感覚から届く手掛かりと、経験から学んだ予測を照らし合わせ、目の前に何があるかを推し量る。[3]

暗がりの輪郭を人と受け取り、袖や襟が見えるとコートだと捉え直す。さっきの場面を、この考え方に重ねることはできそうだ。

何に気づき、何として受け取るか。僕の見える景色には、見る側の働きも関わっている。

では、目を閉じて思い浮かべる景色はどうだろう。

思い浮かべた広場でも、左側が抜ける

ミラノの大聖堂前にある広場。その一方の端に立ったつもりで、周囲の様子を説明してもらう。

1978年の研究で、この課題に取り組んだのは2人の患者だった。脳損傷によって、空間の左側に注意を向けることなどが難しくなる「半側空間無視」があった。

2人の説明では、思い浮かべた視点から見て、左側の細部が多く抜け落ちた。

今度は、反対側の端に立ったつもりで説明してもらう。すると、さっき語られなかった場所が出てくる。その代わり、今の視点で左側に当たる細部が抜けやすかった。[4]

広場を歩いたわけでも、地図を見直したわけでもない。変えたのは、頭の中で立つ場所だけだ。

さっき説明できなかった建物を、今は説明できる。記憶がまるごと失われたわけではなさそうだ。それでも、その時に思い出して語れる部分は変わっていた。

目の前の景色だけでなく、思い浮かべた景色にも抜けがある。頭の中で何かに注意を向けるときも、覚えているものがすべて現れるわけではない。

ここまでは、あるものが経験から抜け落ちる話だった。今度は、そこにないものを感じる方を見てみたい。

感じている。でも、あるとは思わない

手を失ったあとも、そこに指があるように感じる。動く感じがしたり、痛んだりすることもある。「幻肢」と呼ばれる現象だ。

神経科学者のラマチャンドランらは、残る手を鏡に映し、その像を、失った手を感じている位置に重ねて見せた。調べた10人のうち6人が、鏡像の動きに伴って、幻の手が動く感覚を報告した。[5]

手は戻っていない。それでも、手を感じる。痛みがあれば、手がないことを理由に、その痛みまで否定することはできない。

では、何かを感じている人は、それが実在すると信じているのだろうか。

視覚障害に伴い、そこにいない人物などが見える「シャルル・ボネ症候群」。ある研究で調べた60人は全員、自分が見ている幻視は実在しないと理解していた。[6]

見えている。でも、いないとわかっている。

冒頭の僕は、人が見えたので、人がいると思った。一方、この研究の人たちは、見えていても実在しないと理解していた。

感じることと、実在すると考えることは、同じではない。

デカルトも『省察』で、目の前が夢かもしれないと疑いながら、それでも自分にはそう見えているという思考に目を向けた。[7]

対象がそこにあること。本人にそう感じられること。そして、本人がそれを信じること。ここまで見てきた出来事を考えるには、この三つを分けた方がよさそうだ。

僕の「ある」と、世界の「ある」

さらに、ゴリラのように、そもそも本人の注意に上っていない場合もあった。

違いを見渡すために、問いを四つ並べてみる。

対象はそこにあるか。本人の注意に上っているか。どう感じているか。そして、実在すると思っているか。

表の「注意」は、今その対象が意識に上っているかを表す。目の前のものだけでなく、広場のように頭の中で思い浮かべるものも含めよう。

感じ方は「ある」「ない」の二つだけでは足りない。曖昧な気配しかない場合や、何も感じられない場合もある。ここでは、それらを「未確定」にまとめる。判断にも、「あると思う」「ないと思う」のほかに、保留や未判断を残しておく。

同じ対象・時点・場所について、その瞬間の意識的な経験と判断を並べる。注意に上っていなければ、その時点の経験も判断も「なし」とする。この分け方で、実在する場合としない場合を整理してみる。

対象が実在するとき

番号 注意 知覚・経験 本人の判断
1 あり あると感じる あると思う
2 あり あると感じる ないと思う
3 あり あると感じる 保留・未判断
4 あり ないと感じる あると思う
5 あり ないと感じる ないと思う
6 あり ないと感じる 保留・未判断
7 あり 未確定 あると思う
8 あり 未確定 ないと思う
9 あり 未確定 保留・未判断
10 なし 経験なし 判断なし

対象が実在しないとき

番号 注意 知覚・経験 本人の判断
11 あり あると感じる あると思う
12 あり あると感じる ないと思う
13 あり あると感じる 保留・未判断
14 あり ないと感じる あると思う
15 あり ないと感じる ないと思う
16 あり ないと感じる 保留・未判断
17 あり 未確定 あると思う
18 あり 未確定 ないと思う
19 あり 未確定 保留・未判断
20 なし 経験なし 判断なし

注意が向いているときは、感じ方3通りと判断3通りで9通り。注意に上っていない1通りを足すと10通り。実在する場合としない場合で、20通りになる。

ゴリラに気づかなかった場面は10。いるかどうかを考える前に、見落としている。「いないように感じ、いないと思う」5とは違う。

コートを人だと思った瞬間は11。幻視だと理解しながら人物が見える例は12に当たる。幻肢も、手がないと理解しながら感じている場合なら12だ。

広場の話は、覚えているものが今の経験に現れるとは限らないことを示していた。ただ、説明に出なかっただけでは本人の判断までわからず、一つの行には絞れない。

まだ出ていない行にも、身近な場面を重ねられる。

たとえば、机の上に鍵はないように見えるのに、「ここに置いたはずだ」と思う。鍵が紙の下にあれば4、別の場所にあれば14になる。

人影を感じても、「本当に人だろうか」と判断を保留することはできる。冒頭の部屋なら13だ。感じたことを、すぐ信じる必要はない。

箱の中の鍵なら、今はあるともないとも感じられなくても、入れた記憶から「ある」と思える。中に残っていれば7、誰かが取り出していれば17だ。

感じ方も判断も同じなのに、実際にあるかどうかは違いうる。

あるかないか、という二つの答えのまわりに、これだけ違う経験や考え方が並んでいる。

冒頭の僕も、明かりをつけたところで11から15へ移った。人は初めからいなかった。変わったのは、僕の見え方と判断だった。

確かに感じた、その先へ

この区別は、これまでの連載にもつながっている。

丸い四角形を思い浮かべたつもりでも、それが角の丸い四角なら、完全な円と正方形を同じ輪郭で満たしたことにはならない。永久スマホが動くと信じても、無補給で蓄えも減らさず動き続ける仕組みはできない。ホームズを実在の人物だと思っても、彼の生身の人生が過去に生まれるわけではない。

第2回では、言葉で語れることと、実物があることを分けた。今回は、自分の経験や確信にも、同じ問いが向いている。

見えたこと、感じたことは、世界を知る手掛かりになる。ただ、経験に現れたものはすべて実在し、そのほかは存在しない、とまでは言えない。

知らなかった店を見つけても、その瞬間に店が生まれたわけではない。前を通り過ぎていたあいだにも、誰かがそこで買い物をしていた。僕が気づく前から、世界の方は続いていた。

他の人の体験にも、この区別を持っていたい。僕には見えないものが、どう見えているのか。どこに、どんな痛みを感じるのか。対象の実在を確かめながら、その人の感じ方に耳を傾けることはできる。

次回は、いないと知っている人に、なぜ心を動かされるのかを考えたい。小説の人物を心配し、映画の別れに涙する。実在しないとわかっていても、物語は僕たちの心に届く。

明かりのついた部屋で、もう一度、椅子を見る。

コートだとわかった。見間違いは、一つ解けた。

では今、この部屋で、何に気づかずにいるのだろう。

出典・参考資料

  1. Daniel J. Simons / Christopher F. Chabris(1999)「Gorillas in our midst: sustained inattentional blindness for dynamic events」『Perception』28, pp.1059–1074。著者公開PDF。
  2. William James(1890)『The Principles of Psychology』Vol. I, Chapter XI “Attention”, pp.402–403。ヨーク大学公開本文。
  3. Anil K. Seth(2014)「A predictive processing theory of sensorimotor contingencies: Explaining the puzzle of perceptual presence and its absence in synesthesia」『Cognitive Neuroscience』5(2), pp.97–118。公開本文。
  4. Edoardo Bisiach / Claudio Luzzatti(1978)「Unilateral neglect of representational space」『Cortex』14(1), pp.129–133。論文情報、DOI。
  5. V. S. Ramachandran / D. Rogers-Ramachandran(1996)「Synaesthesia in phantom limbs induced with mirrors」『Proceedings of the Royal Society B』263(1369), pp.377–386。論文要旨。
  6. Robert J. Teunisseほか(1996)「Visual hallucinations in psychologically normal people: Charles Bonnet's syndrome」『The Lancet』347(9004), pp.794–797。論文要旨。
  7. René Descartes(1641)『省察』第二省察、第9節付近。カーネギーメロン大学サイト公開英訳。

著者

かったつ

世界のことは、知れば知るほど分からなくなる。哲学や数学、物理を行き来しながら、地球に生きる私たちと世界との不思議な関係を、身近な疑問から一緒に考えます。

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