哲学

鏡に映る僕は、いつから不正解になったのか

写真を見たあと、鏡の自分が少し冴えなく見える。僕の顔は、いつから不正解になったんだろう。現実から作った画像が現実を採点し、「好きな顔」が「正しい顔」に変わる。その奇妙な順番から、美しさの基準を問い直す。

文・編集|かったつ 約6分
鏡に映る僕は、いつから不正解になったのか

寝る前に、スマートフォンで写真を眺めていた。

なめらかな肌。すっきりした輪郭。指を動かすたびに、別のきれいな顔が現れる。

やれやれ、皆さんキレイだ。

それだけのことだった。少なくとも、鏡を見るまでは。

お手洗いに立ち、洗面台の前で足を止める。

おや。

見慣れた自分の顔が、どうも少し冴えない。疲れているのか。照明のせいか。少し顔を近づけてみる。

何がいけないんだろう。そう考えて、ふと引っかかった。

いけない?

ついさっきまで、僕は自分の顔を直そうなんて思っていなかった。写真を眺めていただけだ。なのに、いまは鏡の前で、足りないところを探している。

顔は、この数分で変わっていないはずだ。

では、変わったのは何だろう。

元の顔が、不正解になる

たとえば、自分の写真を少し加工したとする。肌をなめらかにして、輪郭を整える。気に入った画像ができる。それから加工前の写真へ戻る。さっきまで何とも思わなかったところが、急に直したいところに見えてくる。

妙な順番だ。最初にあったのは、加工前の顔のほうだった。そこから作った画像に合わせて、元の顔を採点し直している。手を加えた側がいつのまにか正解になり、元になった側に修正が必要になる。

現実から作られた画像が、現実を採点し始める。 SNSを見たあとの鏡でも、これに似たことが起きているのかもしれない。僕の顔が変わったのではなく、見比べる相手のほうが、すっかり整えられていたとしたら。

もちろん、画面の顔がすべて加工されているわけじゃない。でも、いい光を選び、好きな角度から撮り、気に入った1枚を載せるだけでも、ほかの表情や瞬間はそこから外れる。選ばれた姿を集めた画面と、たまたま洗面台の前に立った自分。同じ条件で比べているつもりでも、そうとは限らない。

ただ、それを知っているからといって、「きれいだな」という気持ちが止まるわけでもない。写真がどう作られたかを理解することと、それを基準に感じてしまうことは、別の話らしい。僕が確かめたいのは、むしろこちらのほうだ。

「きれい」の正解は、どこにある

誰かを見て「きれいだ」と感じるとき、僕は答えを見つけたような気になる。その人の中に美しさがあって、僕はそれを見つけた。そういう感じだ。でも、目の前の顔と同じくらい、それを見る僕の側にも、何かがあるんじゃないか。

心理学者ギリアン・ローズらの実験では、一定の変形を施した顔を短時間見ることで、その後に「普通」「魅力的」と判断する顔が、見ていた変形の方向へ動いたという。SNSの長期的な影響を調べた実験ではない。それでも、見る前とあとで、判断の目盛りが動く場合があることは示されている。[1]

これだけで、僕の好みの由来がすべてわかるわけじゃない。ただ、「自分がそう感じるのだから、自分の中に最初からある基準だ」とは言い切れなくなる。気づかないうちに見慣れたものを、僕は自分の好みとして受け取っているのかもしれない。

たとえば、ある形の顔ばかりを「きれいな顔」として見続けたらどうだろう。最初は、こういう顔が好きだと思う。そのうち、これくらいが普通だと思うようになるかもしれない。そうなると、そこから外れた顔は、好みの違いというより、何かが足りない顔に見えてこないだろうか。

「好きな顔」が「正しい顔」に変わる。誰かが正解を発表したわけでもないのに、不正解のほうだけが見つかるようになる。僕が鏡の前で探していたものも、そんな不正解だったのかもしれない。

だからといって、僕がきれいだと感じたことまで、偽物になるわけじゃない。その感覚は、確かに僕の中にある。ただ、その実感があることと、誰もが従うべき美しさの正解があることは、別だ。大勢が同じ顔を好んだとしても、その好みから外れる顔を、間違いと呼ぶ必要はない。

僕は自分で写真を選んでいる。でも、その写真が、選ぶための基準にも影響しているとしたら。好きだから見ているのか、見ているから好きになったのか。両方が少しずつ重なっているのかもしれない。「僕の好み」と呼んでいるものの境目が、急にはっきりしなくなる。

「きれい」から先に、何を足したのか

さて、そこまで考えてから、もう一度、画面の顔を見る。「きれいだ」と思う。そのとき僕は、その人について何を知ったんだろう。少なくとも、この写真を見た自分が、魅力を感じたことはわかる。

けれど、その人は約束を守るだろうか。誰かの話を、最後まで聞くだろうか。顔をいくらよく見ても、それだけでは答えられない。見えるところの印象がはっきりしていると、見えないところまで、なんとなくわかった気になってしまう。

「僕はこの写真が好きだ」「この人は魅力的だ」「この人は優れている」。並べると似ているようで、言っていることは少しずつ違う。最後の言葉まで進むには、写真から受けた印象だけでは足りない。僕は知らないあいだに、見えたものへ、いろいろな評価を足していないか。

外見を理由に人の価値や扱いを決めるルッキズムは、この飛躍に関わっている。ある姿が好きだということは、その姿に当てはまらない人を軽く扱ってよい理由にはならない。僕の好みが、相手の受ける扱いまで決めていいのか。そこには、もう一つ別の問いがある。

美しいものに目が向くことも、写真を工夫する楽しみもある。その気持ちを持ったまま、そこから先の採点を控えることはできる。「僕が好きだと感じた」。ひとまず、そこで止めておく。その人の残りの部分まで、ひと続きに判定する必要はない。

知ることには、見えたものを増やすだけでなく、そこから言える範囲を確かめることも含まれるんじゃないか。よく見える顔の向こうに、まだ知らないところを残しておく。僕は、その余地を持っていたい。

鏡に映らないもの

最初の、洗面台の鏡に戻る。鏡にも照明や距離の条件があるから、そこに唯一の「本当の顔」が現れるわけじゃない。ただ、目の前の僕は瞬きをして、少し表情を変えている。画面で見た人にも、写真に選ばれなかった、そういう時間がある。

画面を伏せれば、その光は目に入らなくなる。でも、見たものが判断へ与えた影響まで、その動作で消えるとは限らない。顔だけを鏡の前へ持ってきたつもりで、僕は見比べるための基準も、ここへ持ってきていたのかもしれない。

何かが足りない。そう感じたとき、すぐに顔の欠点を探す前に、「足りている顔」のほうを確かめたくなる。その顔は、どこで覚えたものなんだろう。どんな写真を見て、いつから、それが正解になったんだろう。

顔は、相変わらず鏡に映っている。けれど、いま気になっているものは、鏡に映らないほうにある。

出典・参考資料

  1. Rhodes, G., Jeffery, L., Watson, T. L., Clifford, C. W. G., & Nakayama, K.(2003)「Fitting the Mind to the World: Face Adaptation and Attractiveness Aftereffects」『Psychological Science』14(6), 558–566。DOI: 10.1046/j.0956-7976.2003.psci_1465.x。PubMed掲載の抄録を参照。

著者

かったつ

世界のことは、知れば知るほど分からなくなる。哲学や数学、物理を行き来しながら、地球に生きる私たちと世界との不思議な関係を、身近な疑問から一緒に考えます。

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