三角形の内角和は180度とは限らない——数学の「絶対」には、条件がある
三角形の内角和が270度になる世界と、どうしても完成しない一冊の目録。二つの話から、数学の正しさを支える前提を見つめる。前提を考えるところにも、人の想像力がある。そう気づくと、遠い存在に見えていた数学が、少し身近で愛おしくなってくる。
ノートに三角形を一つ描いてみる。
三つの角を足すと、180度。学校で習った答えだ。
もし270度になったら、まず自分の計算を疑うだろう。分度器を当て直すかもしれない。数学の答えは揺るがない。間違えるとすれば、こちらのほうだ。
ところが、三つの角が全部90度になる三角形を、数学ではきちんと考えられる。
足せば、たしかに270度。
どうして、そんなことが起こるのだろう。答えをもう一度計算する前に、三角形を描く場所を変えてみたい。
三つの角が、全部90度の三角形
今度は、地球儀を思い浮かべてみる。表面は、でこぼこのない球だとしよう。
北極から赤道まで、まっすぐ南へ線を引く。そこから赤道に沿って、地球儀を4分の1周する。最後に、まっすぐ北へ線を引いて、北極へ戻る。
三本の線で囲まれた部分ができた。
赤道にある二つの角は、どちらも90度。北極で二本の線が出会う角も90度になる。
三つを足すと、270度だ。
「でも、その線は曲がっているじゃないか」
そう。球の外から眺めれば、どの辺も曲がっている。ここでは、球の表面に沿って二点を結ぶ最短の道を、三角形の辺にしている。球面では、その道が平面の直線に相当する役割を果たす。
学校で習った180度は、平らな面で、三本の直線に囲まれた三角形についての答えだ。球面では、辺にする道も角度の関係も変わる。[1]
180度という正解には、「平面で考えるなら」という前提があった。
平面の定理は、その条件のもとで今も正しい。球面に話を移せば、同じ答えになるとは限らない。
答えは覚えていたのに、その答えが成り立つ場所までは意識していなかった。僕には、そのことが少し意外だった。
書いても、消しても、完成しない目録
前提を変えれば、違う結論になることがある。
さらに、出発点として採用したルールそのものに、矛盾が見つかる場合もある。
ここで、架空の図書館を考えてみよう。
この図書館には、本の題名を並べた「目録」という本がある。
たとえば、料理本の題名だけを集めた『料理本の目録』を作るとしよう。
そこに載るのは、料理の作り方が書かれた本だ。目録そのものには、料理の作り方は書いていない。料理本の名前を並べた本であって、料理本ではないから、この目録自身の題名は載せない。
では、『この図書館にあるすべての本の目録』なら、どうだろう。
完成したその目録も、図書館に置かれる一冊の本だ。すべての本を載せるのだから、自分自身の題名も載せる。
目録には、自分を載せるものと、載せないものがある。
今度は司書が、少し変わったルールで新しい目録を作ることにした。
「自分自身の題名を載せていない目録」を、漏らさず全部載せる。それ以外の目録は載せない。完成した新しい目録も、この図書館に置く。
仕事は単純そうだ。一冊ずつ開いて、自分の題名があるか確かめればいい。
ところが、一冊だけ、扱いに困る本があった。
いま作っている、この目録自身だ。
自分の題名を載せると、「自分自身の題名を載せている目録」になる。それでは条件に合わない。消さなければならない。
消すと、今度は「自分自身の題名を載せていない目録」になる。条件に合うものは全部載せる約束だから、また書かなければならない。
書けば、消す必要がある。
消せば、書く必要がある。
どちらを選んでも、ルールに反する。司書がもっと注意深く作業しても、この問題は解決しない。
そもそも、このルールを満たす目録は作れないのだ。
これが、ラッセルのパラドックスを本の目録に置き換えた話だ。数学では、目録を「集合」、題名を載せることを「要素として含むこと」に置き換えて考える。
問題になったのは、「どんな条件でも、それに合うものを全部集めた集合が作れる」という考え方だった。ラッセルは1901年ごろ、そこから矛盾が生じることを示した。集合を作るルールそのものを、見直す必要があった。[2]
もっともらしい出発点でも、その先をたどると、話が成り立たなくなることがある。
正しさには、前提がある
三角形と目録では、起きていることが違う。
三角形では、平面から球面へと条件を変えることで、別の結論が現れた。目録では、最初に決めたルールに矛盾があり、ルールどおりのものを作れなかった。
一つは、前提を変える話。もう一つは、前提を見直さなければ先へ進めない話だ。
どちらも、答えだけを見ていては気づきにくい。
数学の証明が示すのは、「この前提が成り立つなら、この結論が成り立つ」という関係だ。前提や言葉の意味を保ったまま、正しく証明された結論だけが変わるわけではない。
ただし、前提が変われば、答えも変わることがある。出発点のルールに矛盾が見つかれば、そのまま矛盾のない理論として使い続けることもできない。
筋道が厳密であることと、どんな条件でも同じ答えになることは、違う。
僕は、数学の正解を、条件から切り離して覚えていたのかもしれない。180度という数字の手前にも、どこで、何を三角形として考えるかという約束がある。
そこまで目を向けると、計算の仕方とは別のことも気になってくる。
その約束を、違うものにしたらどうなるのだろう。
「もしも」を、論理でたどる
平面ではなく、球面だったら。
そんなふうに考えることも、数学の一部だ。
数学では、議論の出発点として採用する原理を「公理」と呼ぶ。19世紀には、平行線についての公理を変えて考えることで、非ユークリッド幾何学が発展した。[3]
当たり前に見える前提にも、別の選び方がある。
もちろん、思いつくだけでは終わらない。そこで「線」とは何を指すのか。どんなルールを採用するのか。言葉の意味をはっきりさせ、その先で何が成り立つかを、論理で確かめていく。
三角形の角を三つとも90度にしたい、と願うだけでは270度にはならない。球面で辺をどう定めるかを考え、実際にその条件を満たす三角形を示せるから、270度という答えにたどり着く。
目録のほうは、そうはいかなかった。ルールを言葉にして筋道を追うと、作れないことがわかった。そこから、集合を作るルールをどう定め直すかという問いが生まれる。
数学には、想像した世界を、定義と言葉で形にし、論理で確かめていく面がある。
出発点を考えるところには、想像の自由がある。その先をたどれば、期待どおりの答えにも、思いがけない矛盾にも出会う。
公式を使って答えを出すときには見えにくかった、数学の広がりだ。
数学が、少し身近になる
そう考えると、数学と僕たちの日々の考え方に、つながりが見えてくる。
僕たちも、何かを前提にして考えている。晴れると思って立てた予定も、雨が降れば変わる。そもそも見当違いの思い込みがあれば、そこから考え直す。
日々の判断と数学の証明では、確かめ方も厳密さも違う。それでも、何を前提にするかによって答えが変わりうることや、「もしも」と別の条件を思い描くところには、親しみを感じる。
数学だけが、人間の手の届かない場所で、完成された正解を示しているように見えていた。
けれど、その正しさには条件がある。条件を考え直す余地があり、もっともらしい前提が矛盾を生むこともある。そして、その前提を考えるところにも、人の想像力が息づいている。
そんな数学なら、少し近くに感じられる。
「もしも、こうだったら」と考えることから始めていい。その想像を丁寧に言葉にし、どこまで成り立つか確かめていく数学を、僕は少し愛おしく思う。
最初のノートに戻ってみよう。
三角形の横にある180度。その前に、小さく「平面なら」と書き足してみる。
数字は変わらない。
それでも今は、ノートの外に、三つの角がすべて90度になる三角形を思い描ける。
さっきより少し、数学が身近に見える。
出典・参考資料
- ユークリッド『原論』第1巻・命題32。David E. Joyce(Clark University)による本文・解説:三角形の内角の和。平面の定理を参照。球面の270度の例は、北極・赤道上の経度差90度の2点を大円の短い弧で結ぶ構成による。
- Stanford Encyclopedia of Philosophy「Russell’s Paradox」(1995年初版、2026年3月13日改訂):ラッセルのパラドックス。目録の場面は本稿の説明用の比喩であり、実際の出来事や原文の引用ではない。
- J. J. O’Connor/E. F. Robertson(1996)「Non-Euclidean geometry」、University of St Andrews・MacTutor:非ユークリッド幾何学の歴史。